どのようにして伝えるかということだけやっているヒトは、どんだけやっても自分のモノコトを作っている一人のヒトとは比べられない。立っている場所が違う。どっちがいいかって言われればそれは自分のモノコトを作った方が素晴らしいに決まっている。だってそれはほとんどのヒトが心の底ではやりたいと思っているコトだから。自分が本当にやりたいコトをやるっていうのは素晴らしいことだ。
でももうひとつ、ほとんどのヒトがやりたいと思っているコトがある。そいつが自分で作ることを結構邪魔する存在なのです。それは他人から評価されたいという気持ちです。他人からの評価は作っているヒトをすごく助けるのですが、他人から評価されたいという気持ちは自分がやりたいことよりも自分がうまくやれることのほうへ目を向けさせます。現代日本社会で普通に育つと、評価されないことはやるべきことではない、っていう価値観が無意識レベルで当たり前になってるんじゃないかと思います。でもそれは最近だけの一過性の価値観だと僕は思っています。
評価されないかもしれない自分のコトをやるのは勇気がいる。けど、それをやるだけでとりあえず勇者の仲間入りはできる。僕は勇者になったヒトをなっただけで評価します。(まあ生まれながらの勇者もたくさんいますが)
ちなみに「他人のモノコトをどのように」の部分でがんばっているヒトを評価していないわけではありません。伝えるヒトは必要だし評価の手助けになるし感謝されるべき存在でもあります(いつもではないけど)。「どのように」の中にもたぶん芸術もロックもあります。でもそれがうまくできたからといって自分のことが勇者だと思うのは間違いです。違うんだからしょうがない。
僕も勇者になるべく自分の写真サイトを作る予定です。予定を公表してる行為がすでに勇者ぽくないですが。
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