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2008年05月30日

 事務所で一人で作業をするという比較的当たり前のことが最近出来ない。
 いや、できるんだけど、必要以上の労力がそこでは支払われる。この場所はとてもよい場所なんだけど、中学生のときに僕が抱えた孤独を思い出させる。
 中学生である僕はただひたすら自分が特別であることを願ったような気がする。神様に選ばれた伝説の少年でありたかった。世界で一人だけの自分であることを願った。
 なぜ小学生のときや、中学生のときに接するメッセージは「あなたはとても尊い」みたいな感じなんだろうか。自分が尊くあらねばならないというプレシャーと戦い続けた。

 世界を救うってのがキーワードになった。だって、世界を救えば「生まれてきた意味」が明確やん。
 世界を救うために生まれてきたんだなあって思う。そこには意味がある。
 じゃあ、その救われた世界で生きていく何十億の人々の「生まれてきた意味」ってなんだったんだろう。
「自分の人生の意味もわからないのに、誰かの人生のためになんか頑張れないよ」って僕は正しく中学生の時に日記に書いた。俺はそんなお前のことが大嫌いだよ。

 さっき事務を頼んでいる子が。空気の入れ替えのために開けておいてくれた窓からハチが入ってきた。
 それが結構でかいのです。3~4cmあるの。まじで。羽音がぶーーーんってでかくて、ライトにガチッガチッって体当たりしていて、僕は小4のときにパジャマの中に潜んでいたハチに刺されたという記憶があるので、それがトラウマになっているし、しかもハチって一回刺されたことがある人は次にさされたら体が過剰反応して即死するっていうやん。ハンターハンターにも書いてあったやん。アナフィラキシーショックとかいうやん。だから僕のハチに対する恐怖心は、漠然とした恐怖ではなくて、しっかりと輪郭のある死と隣接した恐怖なのです。
 で、僕はもう30代男子なので、ただ逃げ回っているわけにもいかないので、燦然と立ち向かいました。
 右手にハチを叩き落すための雑誌を、左手に引越しのときにスタッフが買ってくれたゴキブリ用の殺虫剤を。
 ゴキブリに利くならたぶんハチにも利くだろうと思ったのだけど、こういうときに僕としてはやはりむやみな殺生は避けたいのです。出来たら今うっすらと空いている窓からぶーんと出てってくれないかなあと思っているのです。そして、僕と君は別々の人生をそれぞれ仲良く過ごしたいなあと思っているのです。しかし、窓はうっすらとしか開いておらず、そこからハチが出て行くのはかなり可能性が薄そうです。僕は左手の殺虫剤を試してみることにします。しかし、罪悪感が抜けません。どうしてもハチにそれをぶっかけることに抵抗を感じてしまいます。かれは何も悪いことをしていないのに今から僕に殺されようとしています。万が一彼が悪いことをしたら僕が死んでしまうかもしれないという脆弱な理由で彼は殺されようとしています。僕によって。出来たら死んで欲しくないのだけど、僕はたまっている原稿があり、出来たら一刻も早く仕事に戻りたいので、彼を殺すことに決めます。
 でも、右手の雑誌で叩き殺すのは残酷すぎる気がします。左手の殺虫剤ならちょっと弱ったところで、窓の外に出してあげることも出来るかもしれません。
 彼が天井の梁の隅に鎮座しているところに後ろからそっと近づいて僕はしゅっと一瞬殺虫剤をかけました。
 ハチは狂ったように梁を飛び出し、そこらじゅうの壁にばんばんとぶつかり始めました。明らかに何か大切なものが損なわれてしまったようです。ジーバンッ。ジーーーーバンッ。僕の事務所に無常な音が響きます。とても乾いた音。感情のない音。ハチは5分ほどかけてその高度を下げ、ソファーの上にジジジジジジと言いながら着地。ぶるぶると震えるように身もだえしていましたが、ソファーからも落ち、足を上に向けびりびりと震えだし、その動きは次第に緩慢になり、殺虫剤でかすかに湿った体はゆっくりと死に近づいていきました。
 まだ、波の満ち引きのようにゆったりとしたリズムでハチの足は動いていたけれど、僕はそれをそっと紙の上に乗せて、BAR探偵の前に咲く花の前に植えてあげました。せめて少しでもこの小さな生命が、別の生命の役に立ちますように。その命の意味が、せめてゼロではなかったと僕が思いたいがために。

 ひょっとしたらこんなことは、こういうミュージシャンが書くblogなどで言及されることではないのかもしれないけれど、中国の地震のことをどういう風に考えたらいいのか僕はわからない。
 何万って言う人が死んでいて、でも日本での話じゃなくて、でも同じ生き物で、言葉を喋る生き物が何万人もいっぺんに突然なんの理由もなく死んだ。 
 地震が起こる直前まで中国に対してなされていた報道のことを僕は忘れていない。その政策への批判は、その国民性の否定にまで拡大解釈されていたように思う。
 まるで別の生き物を否定するかのように。

 ヒューマニズムについて語るつもりはなくて、愛国心についても今は書きたくない。
 でも、ただ、僕の個人の皮膚感覚として、中国での地震をどういうふうに考えたら良いのかわからないのです。
 神戸の時は心から悲しんで、ひどい気持ちになればよかった。
 中日が巨人に勝ったときはざまあみろと思えばよかった。
「中国の地震は、チベット政策の報いだ」と言った女優さんが出演中の映画を降板したらしい。彼女は中国に対してざまあみろと思ったんだろうか。そこで死んだのは人間だとは思わなかったのだろうか。殺虫剤をかけてハチを殺すように思ったんだろうか。彼女は自分の骨が折れる音を聞いたことがないんだろうか。生命の危機を感じたことがないんだろうか。生まれてきた理由について考えたことってないのかな。

 いつも、いつも、いつもそういう時はおんなじ結論しか出ないんだけど、せめて目を閉じないでいようと思う。
 どんなニュースもきちんと見て、すべての事象に感想を言おう。何かを思おう。それが僕の心の中にへドロのように積み重なっていきますように。ずっと心の中に積み重なっていきますように。積み重なった何かがきちんと僕の取る行動に反映されますように。

 目の前に困ってる人がいたら助けたらいいと俺は思う。
 何故助けるかなんてずーーーーーっと後で考えたらいい。
 ぜんぜん助けたくないなら助けなくていい。そのかわりその人が、醜く腐ってひどい匂いを発しても何一つネガティブな気持ちを持ってはいけない。
 今できる一番ポジティブなことをしよう。したい。出来るならしたい。出来ないけど出来たらしてみたい。

 中国に飛んでいってボランティアで活動も出来ない軟弱なミュージシャンの癖になにいってやがる、と俺も思ってるよ。

 きっとどんなに憎らしい人間でも、その人間の爪が焼ける匂いは喜びにはならない。髪が焼ける匂いをかぎたくはないし、その皮膚の下からこぼれ出る内臓を、見つめていたいとは誰も思わない。その人間がなんらかの圧力によってぐしゃりと潰されることを喜べる人は少ないと思う。結局我々は生き物を憎めない。
 このラインを超えたら、それは創造力と想像力を超えるってことだ。
 ミサイルで溶ける様に死んでいった人達のことを一切考えられないってことだ。
 マラリアで年に500万人死んでいく人々のことを考えられないってことだ。
 きっとそれが戦争だ。血肉が流れることを想像できない人が、血肉を流す。

 人が死ぬっていうことが、記号化出来る人は強い人だ。
 でもその強さを、すくなくとも僕は愛さない。
 
 誰かが死んだらこんなに悲しい。
 そのことを少しでも拡大解釈できたらいいなと、僕は思う。
 隣の国で地震が起きて、一字も原稿が書けなくなって、神経性胃炎でぶっ倒れる俺のことを、そんなに嫌いではない。
 好きでもないけどね。

Posted by kato takao at 2008年05月30日 04:42 | TrackBack
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