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2006年02月09日

 その老人はもう話すことをやめてしまった
 皆は次の言葉を待っていたが
 彼はもう話すことをやめた
 言うべき言葉がもうなかった
 この人生において彼が言わなくてはならないことを
 一言も残らず言葉にしたのだ
 彼はとてもとても満足だった
 まわりには彼の次の言葉を待つ彼の子供と孫たちがいた
 心配そうに彼をのぞき込んで次の言葉を待っていた
 老人はそれを見て滑稽だなと思った
もう私は何も言葉を発しはしないのに
 深い深い満足の中で老人は目を閉じた
 言葉が舞った
 命のような激しさで言葉が舞った
 銀河の隙間を
 うねるように舞っていった
 愛すべき人に愛してると言い
 優しい人にありがとうと言った
 すべての言葉を言い終えたのだ
 上々だ
 私の人生は上々だった
 そして
 そして重力が薄れるように
 老人の体は実体をなくしていった
 くたびれたゴムがあっさりと切れるように
 プツリと音がした
 しかし刹那にこびりついた彼の意識は
 思っていた
 さようならを言うのを忘れていたと
 言霊がかすかに揺れた
子供たちは彼の手を取り
 まだかすかに残る温かさを感じ取りながら
 さようならと言った




Posted by kato takao at 2006年02月09日 23:35 | TrackBack
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