その1で「良い企画」ってのは「世界をよくする企画だ」って書いたけれど、たぶん大部分の人たちが「まあまあ確かにそういえる部分はあるけれど、結局そんなおおげさなことじゃないでしょ」って思ってると思う。
ちょっとしたグッズの企画だって企画だし、友人のためのサプライズパーティーだって企画だし、ただクスリと笑えるだけのちょっとしたイラストだって企画と言えるし、世界がどうのこうのって暑苦しいわ!ってたくさんの人が思うと思う。
でも、僕はやはりなにかを生み出して、それを誰かに見せてしまった時点で、もう世界は変わってしまうと思ってる。
少なくとも、あなたが作品を生み出して発表する前と後では世界は変わっている。
何が変わっているのかはわからない。
どう変わっているのかもわからない。
でも、間違いなく言えることは、もうさっきまでとは違う世界がそこにあるってことだ。
もちろん、一見わからない。
何も変わってないように見える。
でも確実に変わってる。一緒のはずがない。
何かを作って、それを誰かに見せて、まったく世界に変化がないわけじゃない。
どこかで誰かの心を少しだけ動かしている。記憶に残っている。
心が少しでも動いたら、それは行動にも少しは現われる。
行動が世界を作っていくんだから、やっぱりあなたの作品は世界をほんの少しだけかすかに変えているといってもいいと思う。
そう思わなくちゃいけないと僕は思う。
あなたが今作っているものが世界を変える。
そう考えたときに、あなたは今作っているものを、本当に胸を張って世界に出せるだろうか?
そして、世界を変えてしまうなら、どんな世界にしたいかを考えながらじゃないと、企画なんて考えられないと思わない?
だから僕は、本当に自分が作りたいものしか作っちゃダメだと思う。
本当に自分が良いと思うものを世界に送り出さなくちゃいけない。
それで世界が変わってしまっても悔いのないものを出さないといけない。
本当に自分が感動できるものを、もし自分がまっさらの状態でその作品を見たときに、嫉妬でびりびりに破り捨てたくなるようなものを世に出さなくてはならない。
これは「すごい作品を世に送り出す」という話とは少しだけ違う。
今僕がしているのは企画の話なので、これはベクトルの話を言ってもいい。
あえて言うけれど、未完成なものを世に送り出すことを僕は恐れない。
細部まで完璧に構築されているものを世に出せといっているわけではない。
企画ってのは構造だ。
大まかなつくりだ。
方向性であり、目指すべき一点の場所への言及である。
それは少なくとも間違ってはいけない。
だから、どんなに荒いものであっても、「企画」の部分がちゃんとしてるなら、もう世に出してみるってのは僕は好きなやり方です。
全く売れなかったとか、ぜんぜん評価されなかったとか失敗もたくさんあるけれど、自分のベクトルとずれた企画を世の中に送り出したことは一度もないと断言できる。
なんか概念的な話ばっかりになっちゃってるけれど、次からはちょっと実践的な話を。
Posted by kato takao at 2015年03月30日 00:44 | TrackBack
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