日記を書かなくなった理由をふと思い出した。
何年か前。
僕はぼんやり見てたテレビで流れたCMに批判めいたことを書いた。
明確な批判じゃない。
なんとなくつまんないなあみたいなニュアンスで。
そしたら、そこからそれを制作した広告代理店からたくさんのリアクションがあった。
わざわざ電話やメールで忠告してくる人もいたし、会ったときに「あれはやめたほうがいいですよ」と忠告してくる人もいた。
詳しくは書けないんだけど、僕はあのCMはクソだ!と書いたわけじゃない。
このメッセージはもっと別のベクトルを向いたほうが適切なんじゃないかと書いたんだ。
クオリティを批判したわけじゃない。
自分との方向性の違いを指摘しただけだ。
そしたら、すんごいたくさんの人たちからあーだこーどと言われた。
半分は冗談交じりで、半分は神妙な顔をして。
「普段だったらこんなこといいませんよ。でも動いている額が普通じゃないんです」という人もいた。
俺程度の人間の発言で吹き飛んでしまうようなことならもう吹き飛んでしまえよ、と思った。
それ以来SNSに書くときは、もうロックンロールな気持ちでは書けない。
ライブのMCで毒を吐くのが関の山だよ。
当時はものすごく広告の案件をやっていたので、知り合いもたくさんいた。
なにかのCMや番組を見て、くそつまんねえなと思っても、知り合いがつくってるかもしれないなあと思うとなにも書けなかった。
しかし、思ったことを書けない日記ってそれ日記の意味ある?
結局この日記は自分の作ったものの宣伝的な意味合いのものしか載せなくなった。
僕の個人的かつ社会的な不満は僕の身近にいる人間だけに小さな声で語られるようになった。
「このCMってまったくわけわかんないね」
「この番組にGOを出した人ってなに考えてたんだろうね?」
「センスのない人がセンスのあるフリをしてつくったのがこれだね」
など。
誰かの作った何かを批判するなんて横柄なことだ。
批判をわざわざ人前ですることじゃない。
それはわかる。まったくその通りだ。
でも、僕は僕で清廉潔白な聖人君子というわけじゃない。
つまんないものには「お前くそつまんないぜ!」といってつばを吐き掛けたい。
少なくともその権利は失いたくない。
で、なにがいいたいかというと、僕はただ自由でいたいだけなのだ。
誰かの決めた規範の中で生きていたくないからがんばってきたのだ。
それなのに、がんばってきた故に、発言が狭められている気がする。
思えば毒舌系の芸人さんやタレントさんやコメンテーターさんはなんと勇気があって、強い心をもっているのか。
どこかでその心が折れないのか。
誰かを悪く言うとき、その数場の強さで悪く言われることを僕は知っている。
彼らのことをもっと支持するべきだし、彼らにもっと優しくするべきだ。
なぜ日記を書かないのか。
なんとなくだれも批判したくないからだ。
でも世の中にはなお、批判したくなる奴らが山ほどいるからだ。
そしてl、誰かを批判した日記を書くのがそんなに僕はうまくないからだ。
僕らが生きている場所には、パラレルワールドがある。
思想、言動、行動のすべてにそれの逆の意味を持つ人、世界がある。
それを理解し、取り入れることが出来る人は強いなと思う。
でも、そうじゃない人がほとんどのようです。
モノづくりの世界も、自分の思想、環境で作ったものがすべてで、それ以外はありえないとなる。
否定、批判は徹底的に排除なんですのね。
もったいないですね。
有名人になればなるほど発言の自由が奪われていくというのはほんとにそのとおりですよね。
あと、このくそつまんない作品の製作者が知り合いかもしれないから批判しづらいというのもすごくよくわかります。
結果、無口になっていくしかないですよね。
個人的には、たくさん敵をつくることになっても、ともだちを失うことになっても、嫌われても、もしかしたら来るはずだった仕事を失うことになっても、本能のままに感じたままに自由に発言するロッケンローラーの加藤さんでいてほしいです。大人にならない生き方はかっこいいです。
Posted by: mono on 2016年09月30日 18:28
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