ずいぶん昔に彼女から借りた本を読み返している。
売れてないミュージシャンが、webに書きなぐったテキストが単行本になった本。
異常な知識と、すさまじいリズム感が直接脳髄に沁みるようです。
この本を貸してくれた彼女は、その後二回手首を切り、blogで「もういなくなります」と宣言したきり音信不通だ。この本はもう返さなくてもいいかい?
彼女の言葉は誰にも通じなかった。
趣旨も、論旨もなくだらだらとしゃべり続けたが、彼女の美しさが聞き手を増やし続けた。
聞き手と奴隷の数を。
最後の電話。
「加藤さん、なんで生きてるんですか?」
「死んでないからだよ」
「これからも生きるんですか?」
「そのうち死ぬよ」
ガシャンと電話は切られてそれっきり。
思い出しもしなかった。この本を読むまでは。
あらゆるフェティシズムがその到達点においては日常につながるように、あらゆるすばらしい性的行為が日常に還元されるように、リアルな世界におけるゲーム体験は結局些事につながる。
今ある日常の中の不条理。すぐ隣で行われているかもしれない秘事。生まれたかもしれない恋や、架空の恋に焦がれるための倒錯したフェティシズム。焦がれるよう求めるものが、ここにないという枯渇感を満たすために必要なのは、物語であると、もはや僕は断じてゆるぎない。
一時間後に死ぬという異常さ。
教訓を生まれながらにして含むゲームとしての空間。
隣にいる他人は、バックボーンを無視して強制的に協力を要求し、こちらもまたそれを望む。
この場所で、我々は生きていかなくてはならない。キッチュで、薄っぺらで、芸術的に高められたばかばかしさの中で。
あなたは脱出できただろうか。
今いる場所から。
あなたが本当に脱出すべき場所は、どこだろう。
そんな疑似体験。
どれだけ擬似を体験すれば、本当になるんだろう。
僕の愚かさが、エンターテイメントになったのです。
愚かさにも意味があると、この遊びは告げてくれているようです。
憂鬱と快楽の絶対値は同じです。
甘美な絶望はこの世で一番甘い倒錯でしょう。
理性的な堕落は存在するでしょうか?
僕は日常にしっかと立ちながら、根源的サイケデリックに落ちたいと望むものです。
脱出は、まだ遠い。
ともしびが遠くで光っている気もします。
「ある飛行機からの脱出」明日が最終日です。
最終日、ゲームに参加しました。
毎日1人で大半の時間を過ごす生活、
新たな出会いもなく、
世の中から置いてけぼりを感じ、
退屈な毎日に嫌気がさしてた。
リアルに脱出はできなかったけど、
あの密室は別の抜け道を与えてくれた気がします。
Thanksでした!!!
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