ずいぶんと働いている気がするけれど、そこまでぴりぴりしていない。
というか、傍目にはぜんぜん忙しくないように見えている気がする。
なぜだろう。
なんとなく熱くならないというか、芯に熱がこもらないというか、なんとなくやれることをこつこつとやっている感じ。全体を圧倒的なパワーでねじ伏せて、再構築している実感がない。
どうもなにかが失われてしまった。
そして、それは仕方のないことだ。
なんとなく、空いた穴を埋めようとがんばってみたが、無駄だとわかった。
もう空いてるままで進もう。進もう。
失われたものを、失われたのだと認めれば無理して埋める必要はなくなる。
進んでいけば、またなんかがあるさ。
あ、そうそう。
なぜか啓示が下ったのでエヴァンゲリオンについて書く。あ、エヴァンゲリヲンなのか?
あの映画には、積み上げる人は出てこない。
今僕らの目の前にある現実の地面に、新しい何かを積み上げて、より世の中をよくしようとか、もっと人を楽しまそうとか思ってる人は一人も出てこない。
あらかじめ失われた人たちが、その失われた部分を埋めるためにいびつな言動を落としていく。
そこで他者との遭遇が起こり、さらなる傷と、さらなる喪失が生まれる。
彼らがなぜ失われているのかは描かれない。彼らはあらかじめ失われている。
そしてそのことに気づいているが理解はしていない。
つまり、彼らの行動原理は希望ではなく渇望だ。
今自分のそばにある渇きや飢えを満たすために、愛憎劇を繰り返す。
愛憎劇のいびつさを一身に背負った記号が「使途」であり、登場人物は自らの喪失を埋めるためにさらに他者の喪失を生み出そうとする。他者とはこの場合「使途」であり、しかも排斥されるべき他者は、理解を超えた恐るべき存在でなくてはならないために、徹底的な不気味さと、無温度・無湿度さでもって描かれる。使途とは発展的な話し合いの結果、解決を試みるような相手であってはならないのだ。
彼らが戦っているのは「使途」というなの喪失感であり、いくら勝ち続けても達成感を得ることはない。また新たな喪失を獲得し、さらなる渇望を生み出し、更なる殲滅を求める。
この映画は、喪失を喪失と認識できない人たちが、織りなす人間ドラマだ。
それは、ここ10日ほどの僕となんと似ていただろう。
ああ、そうだ、僕には今生きていく理由がみあたらない。
かわりを探すか、理由などないまま生きてくか。
どっちにしたって、今ある喪失が埋まることはないだろう。
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