未来が少しも見えなかったので、僕らは遠回りすることを決めた。
まっすぐ進んで見えてるものは承服しかねる。僕らが決めたルールは一つ。
やりたいことをやる。
僕らは時々手をつないで歩いたけれど、ほとんどつながなかった。歩いていく場所が同じじゃなかったし、つないだくらいじゃ分からないことが多すぎたから。
彼女はあごに傷跡を持っている。ケロイドになっていて、今でもあまり自由に動かない。しゃべるとか食べるとかのほとんどのことは大丈夫なのだけど、寒い時に外で熱いものを飲む時などに不自由らしい。こぼしても気づかなかったり、こぼさないように必要以上に時間がかかったりする。
「べつに気にすることじゃないよ」と僕はいう。「ゆっくり飲めば良いし、別にそんなに目立つわけじゃない」
そういって触ってみると、でも僕の指先はその不自然な凹凸を感じ取る。微かに生えた産毛を逆さになぞるような感触。「だいじょうぶだよ」と僕は言う。もちろん彼女は信じない。
「大丈夫じゃないよ」
「なんで?」
「大丈夫じゃなかったからこんなふうになっちゃったんでしょ」
こんなふうってどんなふうだい?って僕は聞けなかったので、そして「こんなふうってどんなふうだい?」って言葉以外にいいたい言葉がなかったので、何もいわなかった。
みしみしと時間が流れて、二人の間がどんどん大丈夫じゃなくなっていって、ああ、なるほどこんなふうに終わるのかと思っていたら彼女が言った。
「なんであごに傷があるのか聞かないの?」
「聞いて欲しいの?」
「そういうわけじゃないけど、みんな聞いたから」
考えてみるとなんで聞かなかったのかはわからない。なんとなく聞かなかっただけでそこには明確な理由なんてない。聞きたいって思わなかっただけだ。たまたま。
「さあ、たまたま聞かなかっただけ。なんでなの?」
「結局聞くの?」
「いいたくなかったら無理していわなくてもいいけど」
「いいたくないわけじゃない」彼女はいいたくないわけじゃないの、という顔で僕をにらんでいる。きれいだ。「ただ、ちょっと長い話になるし、私に対しての印象が少しだけ変わってしまうかもしれない話なの」
「ふうん」僕は興味を引かれる。「それは興味がある」
「話し終わっても私のこと好き?」
「もちろん」と僕は即答する。こういう質問はスピードが大切だ。考える必要はない。
「今考えなかったでしょ。返事が早すぎた」
「ごめん」
「うん」
「聞き終わっても好きかどうかは聞き終わるまでわからない。でも、どうせ今大丈夫じゃないんだから、一か八か話してみたらいいと思う。だいじょうぶになるかもしれない」
48秒。
彼女は考えて話し始めた。
それは奇妙な話。
太陽の夜に切れたトカゲの尻尾から5本目の足が生え始め、満月のお昼にランチボックスを抱えた中年サラリーマンがバオバブの木の下で切れのいい80年代ブレイクダンスを踊るような。それくらい奇妙な話。
聞き終わってから48秒僕は黙っていた。
49秒目に口を開いた。
「なるほど」それがひとことめ。「だいじょうぶじゃないね」これがふたことめ。
「でしょ。」と彼女。
「ただ、僕が分からないのは」僕はここで言葉を切る。4.3秒。「なぜ君の印象が変わってしまったのかわからないんだ」
彼女の間は16秒。たっぷりと僕を眺めた後で、一言だけいう。「みんなそういうのよ」
そして、二人は別れる。
未来が見えなかったからではなく、ささやかで奇妙なエピソードによって。
僕らは遠回りをして、時々手をつないだけれど、物語がたりなかった。
彼女は九九の6の段がいえない。言っていると哀しくなるから。
彼女は寒い日に熱い物が飲めない。あごの傷からしずくがこぼれそうになるから。
彼女は未来が見えない。見えたってしょうがないから。
彼女はやりたいことしかやらない。
だから、どこにもいけなかった。
僕とは。
最後に、彼女との会話を一つ。
「私のどこが一番好き?」
僕は答えた。
「その質問を、本気で言ってないところ」
彼女はめずらしく声を上げて笑った。
*POSTを押しても自分のコメントが見えない場合、一度ページの更新をしてみてください。
*HTML不可です。
*アドレスは入れると自動でリンクになります。
*管理者の判断でコメントを削除することがあります。