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2006年11月11日

 未来が少しも見えなかったので、僕らは遠回りすることを決めた。
 まっすぐ進んで見えてるものは承服しかねる。僕らが決めたルールは一つ。
 やりたいことをやる。
 僕らは時々手をつないで歩いたけれど、ほとんどつながなかった。歩いていく場所が同じじゃなかったし、つないだくらいじゃ分からないことが多すぎたから。

 彼女はあごに傷跡を持っている。ケロイドになっていて、今でもあまり自由に動かない。しゃべるとか食べるとかのほとんどのことは大丈夫なのだけど、寒い時に外で熱いものを飲む時などに不自由らしい。こぼしても気づかなかったり、こぼさないように必要以上に時間がかかったりする。
 「べつに気にすることじゃないよ」と僕はいう。「ゆっくり飲めば良いし、別にそんなに目立つわけじゃない」
 そういって触ってみると、でも僕の指先はその不自然な凹凸を感じ取る。微かに生えた産毛を逆さになぞるような感触。「だいじょうぶだよ」と僕は言う。もちろん彼女は信じない。
 「大丈夫じゃないよ」
 「なんで?」
 「大丈夫じゃなかったからこんなふうになっちゃったんでしょ」

 こんなふうってどんなふうだい?って僕は聞けなかったので、そして「こんなふうってどんなふうだい?」って言葉以外にいいたい言葉がなかったので、何もいわなかった。
 みしみしと時間が流れて、二人の間がどんどん大丈夫じゃなくなっていって、ああ、なるほどこんなふうに終わるのかと思っていたら彼女が言った。
 「なんであごに傷があるのか聞かないの?」
 「聞いて欲しいの?」
 「そういうわけじゃないけど、みんな聞いたから」
 考えてみるとなんで聞かなかったのかはわからない。なんとなく聞かなかっただけでそこには明確な理由なんてない。聞きたいって思わなかっただけだ。たまたま。
 「さあ、たまたま聞かなかっただけ。なんでなの?」
 「結局聞くの?」
 「いいたくなかったら無理していわなくてもいいけど」
 「いいたくないわけじゃない」彼女はいいたくないわけじゃないの、という顔で僕をにらんでいる。きれいだ。「ただ、ちょっと長い話になるし、私に対しての印象が少しだけ変わってしまうかもしれない話なの」
 「ふうん」僕は興味を引かれる。「それは興味がある」
 「話し終わっても私のこと好き?」
 「もちろん」と僕は即答する。こういう質問はスピードが大切だ。考える必要はない。
 「今考えなかったでしょ。返事が早すぎた」
 「ごめん」
 「うん」
 「聞き終わっても好きかどうかは聞き終わるまでわからない。でも、どうせ今大丈夫じゃないんだから、一か八か話してみたらいいと思う。だいじょうぶになるかもしれない」

 48秒。
 彼女は考えて話し始めた。
 それは奇妙な話。
 太陽の夜に切れたトカゲの尻尾から5本目の足が生え始め、満月のお昼にランチボックスを抱えた中年サラリーマンがバオバブの木の下で切れのいい80年代ブレイクダンスを踊るような。それくらい奇妙な話。

 聞き終わってから48秒僕は黙っていた。
 49秒目に口を開いた。
 「なるほど」それがひとことめ。「だいじょうぶじゃないね」これがふたことめ。
 「でしょ。」と彼女。
 「ただ、僕が分からないのは」僕はここで言葉を切る。4.3秒。「なぜ君の印象が変わってしまったのかわからないんだ」
彼女の間は16秒。たっぷりと僕を眺めた後で、一言だけいう。「みんなそういうのよ」

 そして、二人は別れる。
 未来が見えなかったからではなく、ささやかで奇妙なエピソードによって。
 僕らは遠回りをして、時々手をつないだけれど、物語がたりなかった。
 彼女は九九の6の段がいえない。言っていると哀しくなるから。
 彼女は寒い日に熱い物が飲めない。あごの傷からしずくがこぼれそうになるから。
 彼女は未来が見えない。見えたってしょうがないから。
 彼女はやりたいことしかやらない。
 だから、どこにもいけなかった。
 僕とは。

 最後に、彼女との会話を一つ。
 「私のどこが一番好き?」
 僕は答えた。
 「その質問を、本気で言ってないところ」
 彼女はめずらしく声を上げて笑った。

Posted by kato takao at 2006年11月11日 04:20 | TrackBack
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