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2005年08月04日

 中学生になってからも野球は続けた。
 野球部の顧問は蒲田という男で、なぜかいつも首を少し左にかしげていた。まっすぐに世界を見るのが辛かったのかもしれない。もしくは、そうすることによって、世界の真実を見ることが出来たのかもしれない。
 しかし、もし、彼が世界の真実を見ていたとしても、その真実は僕らの信じるものとはずいぶん違うようだった。
 彼は短気で、野球を知らず、スポーツにおいて必要なものは根性だと信じている不思議な男だった。
 あるときノックで彼は飛んでもないところにボールを打った。
 「先生、あれは取れません」と選手が言うと、
 「気合で引き寄せろ!」と鎌田先生はいった。
 僕らは笑ったけど、彼は笑っていなかった。
 後に聞いた話によると、彼は学生時代にバレーボールをやっており、野球はまったくやっていなかったそうだ。僕らの中学にはバレー部がなかったので、しかたなく野球部の顧問になったのだという。
 彼は、京都の市立中学校教員のバレーボール大会に出場し、獅子奮迅の活躍をしたそうだ。セットを取るための15ポイントのうち14ポイントは彼のアタックだったらしい。

 しかし、僕らが蒲田先生のことを大嫌いだったかといわれたらそうでもなかったかもしれない。
 大好きではなかったけれど、やはりどこかでは信用していた。
 ノックは下手ではなかったけど、いっていることはきちんとしていたし、しかることとしからないことのラインがはっきりしていたので、僕らはいつしかられるだろうかとドキドキする必要はなかった。
 彼が烈火のごとく怒ったのは、可動式のバックネットをふざけて動かして倒したときと、バットでバスケットボールを叩いてへこました時だ。
 そういう時は僕らは、ものすごいびんたを何発も食らった。やや首を傾けて、怒りに打ち震えたような目で、異常に赤い顔をして僕らを殴り続けた。
 野球の試合でどんなミスをしても殴られた事はないと思う。そういう意味では、小学校の時の監督コーチは野球人だった。蒲田先生は教育者だったと言えるかもしれない。今から思えば。

 僕らはまあ弱いチームで、僕もまたたいした選手ではなかった。
 授業が終わると、今日の練習が中止になることを祈った。ほぼ99%練習は中止にならなかった。鎌田先生がどこかへ出張に行っているときも自主錬をさせられたし、雨が降っても、光化学スモッグ注意報が出ても校舎の廊下で筋力トレーニングをさせられた。

 いったい何故僕が、野球部をやめなかったのかは、今となっては一つの謎だ。
 なぜ、あんなに嫌な事を一生懸命やっていたのか。必死で我慢して、先輩のいじめや、トレーニングに耐えた。その結果どうなるわけでもない。試合に勝てるわけでも、野球がどんどん上手くなっていくわけでもなかった。
 思えば、小学校の頃はやればやるほどうまくなっていく気がしていた。チームもどんどん強くなったし、「試合に勝つ」という目的があり、それが楽しかった。
 しかし、中学になってからの野球はそうではなく、まるで目的のない自己鍛錬の場だった。僕らはどんな大会に出ても一回戦を勝つことはまれで、二回戦を勝った事はおそらく二回ほどしかなかった。
 僕は一年生の時は完全に補欠だったが、確か一人くらいは代打などで使われていた。二年生になったときは同級生の中で3人くらいレギュラーになったが僕は補欠だった。時々代走で出て走らされるだけだった。
 ちなみに、僕の野球人生で一番恥ずかしい事件はこのころに起きる。
 代走で出て、けん制でさされたのだ。
 三年生になって、やっと僕はレギュラーになる。

 僕は確か7番あたりを打っていて、ライトを守っていた。まあ、期待されていないポジションと打順だけど、一応僕の名誉のために言っておくと、中学野球におけるライトは7番目の内野手であり、「ライトゴロ」というものが存在するのだ。つまり、一ニ塁間を抜けるヒットを打たれても、ライトがすばやく処理してファーストに投げるとアウトになるのである。ライトゴロは中学野球においてそんなに珍しいプレーではない。一応そのことは知っておいてくれたまえ。

 正直に言うと、このころの試合の事はあまり覚えていない。
 僕はめったにヒットを打たなかったし、前述のとおりホームランは一度も打たなかった。かといって別に守備が上手かったわけでもなく、それなりに足が速かったので、塁に出たら盗塁をした程度だった。
 まあ、とにかく良く負けたし、僕もチームの足をひっぱった。
 もちろん。この頃には、僕はプロ野球選手になろうなんていう夢をすっかりあきらめていた。
 僕があきらめた最初の夢だ。

 鎌田先生はその時7、8、9番を打っていた僕らを集めて、
「松原中学校の7、8、9番打者はやまびこ打線と名づける。がんばれ」とかいった。
「やまびこ打線」とは、当時、「野球も人生、人生も野球」という名言で知られた蔦文也監督率いる徳島の池田高校のあまりにも途切れない打線を称してつけられた言葉で、弱小中学野球チームの下位打線のみに名づけられるにはもっとも遠い名前だったが、まあ、僕らは「はいっ!!」とかいってその気になった。
 試合中にも僕は打席に入る前に8番バッターに声をかけ「やまびこ打線の一番目が言ってくるぞ」とかいっていた。
 さすがにこれを書きながらちょっと恥ずかしくなってきたな。
 おそらく、やまびこ打線の打率は一割ちょっとだったと思う。めったに塁に出ないのがやまびこ打線の特徴だった。いくら、軟式野球は打率が低いとはいえ、それにしてもヒットが出ることなんてめったになかったように思う。
 
 ああ、僕はそんな感じで、第7の内野であるライトと、やまびこ打線の先方である7番を勤め上げたのである。一年間も。
 誇らしくも、なんともないが。 

Posted by kato takao at 2005年08月04日 05:22 | TrackBack
みんなのコメント

誇らしい。きっと。

誇らしい。で終わってたらもっと素敵だったなぁ。(読後感が)

加藤さんの文章は描写がほんとにリアルでドキドキしっぱなしです。

回想文がなんか特に好きです。

Posted by: うさこ on 2005年08月05日 00:29
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