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2005年05月21日

 まるでなにもないみたいだ、と僕はつぶやいていました。

 それはあまりにも雑多な町で、雑多な部屋で、雑多な服を着た、雑多な人でした。
 彼女は何もかもを持っていて、きらびやかで、わがままで、きれいで、とても上品にウィットに富んだ会話をする事が出来ました。
 彼女と話していると、まわりにどんなにたくさんの人間がいても二人っきりで話しているようでした。

 でも、まるで何もないみたいでした。なぜだかわからないけど。

 彼女にはたくさんの男友達がいて、みんな彼女のことを好きだったけど、彼女は誰の事も好きじゃなかった。彼女は自分のわがままが世界の秩序になるべきだと考えていて、考えたとおりに行動していて、男達はそれを実現させるために必死だった。

 僕はそれを少しだけ遠くから見ていたけど、知らないうちに巻き込まれていて、ずいぶんとややこしくなって、そのややこしさから逃げ出そうとしたらさらにややこしくなりました。

「大切なのは、あなたが私を好きかどうかではないの」と、彼女は言いました。「私があなたを好きって事なの」

 でも僕は彼女がそのセリフを両手の指では数えられないくらいの男に言っている事を知っていたし、そのほとんどの男が「もちろん僕も君の事が好きだよ」と言ったことも知っていました。

「でも、僕にとって大切なのは」と僕はいいました。「君が本当に僕を好きなわけではないってことなんだ」

 僕は彼女のことがとても好きだったのだと、そのときにわかりました。これはなんと不毛な片思いなんでしょうね。誰かの事を好きだとはっきりと認識した最初の瞬間だったかもしれません。

 彼女はなにか言いたそうでしたが、そのすべてを飲み込んで「ふん」といいました。
 とてもキュートな「ふん」。
 
「あなたは幸せになんかならないわ」彼女はいいました。「これから一生誰の事も好きにならないでしょう。自分のことを好きな女の子とだけ仲良くしていくのよ」

 そうかもしれない。

 でも、そんな事は本当にどうでも良くて、ただ僕はあなたに触れたいだけだった。

 きっと、僕があなたに触れたなら、ずぶずぶと皮膚の中にめり込むような一体感で、やわらかいお湯に使っているようなやわやわな感じで、太古から伝わる海の記憶が喚起されるような時間がやってくるのだと確信していたけど、僕は「そうかもしれない」とだけ言いました。

 彼女は彼女のマニュアルに沿って、もちろん泣きました。
 しばらく黙って、何度か不自然なまばたきをして、右目だけからきれいなラインを描いて、涙がこぼれました。つるりと頬を滑って、口のふちに当たって、彼女はそれをそっとなめました。

 まるで何もないみたいでした。
 僕は抱きしめてみたかったけど、そんなこと出来なくて、ただ立ってました。

 僕は川べりの、初夏の風を受けながら、未来の事を考えていました。
 時間が止まったみたいで、しゃべっていないのに直接テレパシーを脳と脳に飛ばせるくらい二人の精神的な距離は縮まっているようでした。
 彼女はとてもきれいなミュールをはいていて、ジーパンからはみ出たくるぶしがありえないほどかわいくて、僕はどうにかなってしまいそうだったけど、そして、きっと、僕はどうにかなってしまったのでしょう。
 泣いている彼女を置いて「じゃあ、帰るね」といって帰ってしまいました。

 少し生臭い、初夏の草の薫りをかぎながら。
 僕はきびすを返して、一度も振り返りませんでした。
 
 それから、彼女と僕は一度も会っていません。
 と、なればそれでいいんだけど、そういうわけにもいかない。
 その後も僕らはブルーハーツの歌詞について語り合い、僕がいかにすばらしい歌詞を書くかについて賞賛の言葉を探し合い、僕の曲で泣いた回数を競い合い(もちろん僕が勝った)、親しい友人の近況を話し合った。

 大切な事は、結局彼女とは一度もセックスをしなかった事だ。

 彼女は何もかも持っていて、まるで何もないみたいだった。
 だから、
 ものすごく美しかった。
 二度の離婚を経験し、一度子供を堕した。
 
「未来は僕らの手の中だなんて信じられる?」と彼女は昔言った。
「さあ、そんなこと考えた事もない」と僕は言った。
「そう。あなたのそういうところは好きだけど、私は『未来は僕らの手の中』だと信じられる人を信じるわ」

 さて、時間が流れて、僕らは離れ離れで、もう手を伸ばしてもキスも出来ない。

 3回目の結婚は、身内だけでひっそりとやるそうだ。
 どうも、おめでとうございます。
 僕もここで、ひっそりと、お祝いのビールを飲んでますよ。

Posted by kato takao at 2005年05月21日 09:02 | TrackBack
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