その夜は、まるで何もないみたいに静かで、僕が部屋をきします音や、冷蔵庫のファンの音や、遠くのほうから時折聞こえる車のエンジン音しかなかった。
僕は、友人からもらった、やけにおいしいテキーラを飲んでいる。体にすっとなじむ。つるりとのどを通って、残像だけ残し、すばやくしみこんでいく。
電話が鳴り出した。だれだろう。こんな時間に電話をかけてくる友人は僕にはいない。
「もしもし」と言って僕は電話に出る。
彼女は何も言わない。
なぜ彼女だとわかったのかが僕にはわからないけど、彼女だと僕にはわかる。
受話器を持つ手が少しだけ汗ばんでいるのがわかる。こっそりとつばを飲み込んで、僕は無言の電話に話し始める。
その話は、とても激しい雷鳴のなった夜に、盲目の男がアコーディオンで、美しい酒場の女に愛を伝えたって話。でも、あまりにひどい雷鳴に、そのアコーディオンの音色は捻じ曲げられて、それは愛とは伝わらず、結局盲目の男はその後も一人で生き続ける。
「ほんの少し雷鳴が大きすぎたせいで」と僕は話を続ける。「彼らは添い遂げることが出来なかったんだ。もちろん、女のほうも男のことを想っていたんだよ」
もちろん電話の向こうから返事はない。
彼女はどこかの公衆電話にいるのかもしれない。向こうの音の響き方がやけに密室的だ。きちんとした一人暮らしの女の子の部屋からの電話とは思えない。
僕の話は続く。
「盲目の男は、その後音楽家として生活をしていったけど、ある日強盗に襲われて、身の回りのすべての金品を盗まれてしまった。しかも、彼は商売道具である指もそのときに痛めてしまったんだ」
美しい酒場の女は、彼が打ちのめされているのを見て、何かしてあげられることはないかと聞いた。男は「せめてその憐憫の目で見るのはやめてくれ」といった。でも、彼女がその瞳にたたえていたのは、憐憫なんかじゃなかった。じゃあ、なんだったのかといわれたらいまではもうわからない。でも、憐憫なんかでは絶対になかった。男の目がほんの少しでも見えていれば、そんなことは一目でわかったのに。
彼女の美しさは比類なく、凛として世界の中心に立っていた。彼女がいる場所が世界の中心だった。その町の男たちはみな彼女にあこがれて、少しでも近づこうと努力したけど、結局どうにもならなかった。彼女は、男たちを近づけて、かわし、すんでのところで魔法のように消えうせた。
「あなたが私のことを好きなのは、私があなたのことを好きなふりをしたからよ」と彼女は最後にきちんと言った。そして、少しだけ寂しそうに笑った。
僕は、話をしているのが僕なのか、この物語の中の盲目の男が僕なのかがよくわからなくなってくる。電話の向こうで彼女は何も言わず、僕の次の言葉を待っている。
盲目の男は指に致命的な傷を負い、アコーディオンはおろか、日常生活も営めなくなっていた。美しい女は、男のためになんでもしてあげたいと思ったが、アコーディオンなき今、男が本当に愛しているのが誰なのかを伝えるすべはなく、また女は愛されている確信もないのに、世話をしてやれるほどお人よしではなかった。
「結論からいうとね」と僕は言う。「二人は愛し合ってはいたけれど、結局一度も触れ合うこともなく死んじゃったんだ」
男は53歳まで生き、崩れ去るように一人安アパートの一室で死んでいるのを、隣人が見つけた。死後6ヶ月経っていて、ひどい匂いがするのでたずねてみたところ発見したらしい。
「女はまだ生きてるんでしょ」
彼女が始めて話した。電話の向こうで、切実な声で。
僕はいう。「うん。もちろんまだ生きてる」
美しい女は、しばらくしてすぐに美しくはなくなり、「良い女」にはなったが、それだけだった。
ただ、彼女はその目じりのしわを隠そうとは思わなかったし、かさついた肌でしかわからない温度があるのだと知っていた。
「彼女は今、どこでなにをしているのか。それをここで話すのはやめよう。」と僕はいう。
それは、たいした問題ではない。
問題なのは、彼女が今、彼とは一緒にいないということだ。
「もしも・・・」と彼女はかすれた声で言う。とてもかすれている。僕は受話器を耳にぐっと押し当てて、彼女の言葉を一言も聞き漏らさないようにする。
「もしも、あの夜に雷鳴がなっていなかったらどうなったの?」
僕はそれには答えない。答えられない。
僕は受話器に耳を当てたまま、じっとしている。身じろぎひとつしない。
もしも、あの夜に雷鳴がなっていなかったらどうなっていたんだろう。二人は手と手を取り合って、幸せに暮らしたんだろうか。
僕は、テキーラを呑む。
ついにストレートで呑みだす。少しだけむせる。
本当に大切なことは、今この場所に雷鳴が鳴り響いてはいないってことだ。
僕の声は彼女に届き、彼女のかすれた声は優しくぼくの鼓膜を揺らす。
僕は祈っている。
彼女が「今雷鳴がなっていないことに気づいてくれますように」と。
僕のうたは届いているだろうか。
この静かな、雷鳴の鳴らない夜を越えて。