消えた3ページ
その推理小説の最後の3ページがなくなっているのに気づいたのは、やけに冷たい風の吹く春の夜だったように思う。
たいして面白くもない小説で、登場人物はみな変に気障なせりふを吐くし、トリックもつまらない。犯人に至っては、1/3を読む前にわかってしまった。三人の女子大生が、毒殺された事件。住んでいる地域も、出生も違い、共通の友人もいない三人が、同じ日のほぼ同時刻に同じ薬で殺された。
僕は、ビールを飲みながら、朝からそのミステリーを読んでいた。今朝からしたことといえばその本を読むことと、ビールを飲むことだけ。つまみに昨日作ったポトフをつまんだ。時折風が窓を揺らす以外なんの物音もしない部屋。誰も訪ねてなんかこないし、電話も鳴らない。ページをめくる音が大きく響いて、隅から隅まで伝わっていく。
本を読むのに疲れたら音楽を聴く。妙な音楽で、リラックスして聴けるもんじゃない。でも、疲れた目を休める間、流しておくには「なぜか」ちょうどいい。本を読んでいるときと同じ温度の気持ちが保てるから、すぐにまた物語に入っていける。
この部屋には犬も猫もいない。物語と音楽があって、その他には生活を続けていくための諸々しかない。僕は思うのだけど、物語と音楽しかない休日の午後ってのは死みたいだ。幸福でまるで無に等しい。僕は僕のまま空っぽになって、ただそこを漂っていればいい。
さて、最後の3ページがなくなった推理小説は、宙ぶらりんのまま、部屋の真ん中にとどまっている。
それはつまらないわりにずいぶんと長い物語で、朝から読み出して、読み終わるのに日がとっぷり暮れるまでかかった。
「犯人はあなたですね、ミス・クラムチャウダー」と探偵は言う。もちろん、その推理は間違ってはいない。ただ、あまりにも間違っていなさ過ぎて、読者としては物足りない。意外な結末なんてこの世界にはないということを示唆しているのかもしれない。クラムチャウダーは泣き崩れる。しかし、あんなトリックでだましとおせると思うなんて、彼女には現実をきちんと把握する能力が欠如しているとしか思えない。
とはいえ、彼女は物語の中でずいぶんと魅力的である。ノースリーブのワンピースがことのほか良く似合い、とてもエレガントに爪を切る。足の形に奇跡みたいにフィットしたサンダルを履いて、こつこつと素敵にキュートな音を立てて歩く。もちろん探偵は、世の探偵がすべてそうであるように、ヒロインである彼女に思いを寄せる。彼女にキスをして、ワンピースのファスナーを下げようとするときに、首筋についたキスマークを見つけ、この事件のすべてのトリックを理解するのである。
「ずいぶんとはっきりとついたキスマークですね。さすがに少し妬けてしまいますよ!」と探偵は言う。
「あなたもつけていいのよ探偵さん。私はキスマークがつきやすい体質なの」
ああ、そんな事を言ってはいけない。僕は怒りのあまりミス・クラムチャウダーを少し好きになってしまう。あまりにもおろかなセリフだ。探偵は行為の最中で電撃に打たれたように、事件の全貌に気づく。その言葉で、今までつながりがわからなかった二番目の女子大生殺しがつながってしまったのだ!その哀しい事件は、すべての点と点が線で結ばれて、パズルははっきりとその隠された模様を浮かび上がらせている。
探偵はすぐに部屋を飛び出し、関係者を部屋に集めて「さて」という。
「この哀しい事件は、13年前のある出来事に由来しています」
そうか。13年前の雨の日に、ほんの少しスリップした車が、自転車とかすかに触れ合った。そのときに出会った男女が、悲しみを育んでいく。
そして彼は重々しく言う。「そして、その女性が、あなたですね」場内はしんと静まり返り、だれも身じろぎもしない。「犯人はあなたです。ミス・クラムチャウダー」
一方僕のほうは、8本目のビールを開けたところである。少しだけ物語から目を離す。
音楽をもう一度流す。日はずいぶんと傾いていて、もうすぐ夜である。首をぽきぽきと鳴らしてから、僕はもう一度ミスクラムチャウダーの起こした復讐劇へと埋没していく。
「あの娘は死んであたりまえだったのよ!」とクラムチャウダー。最後まで関係がわからなかった二番目の犠牲者、ミス・デリカテッセンのことである。もちろん、デリカテッセンにはデリカテッセンなりの言い分もあるのだけど、死人に口はない。僕はどちらにも等しく同情しながら、もしデリカテッセンならなんと言うだろうと考えている。
突然、銃声が鳴り響く。クラムチャウダーの放った銃弾はミスター・ポチョムキンの鼻先をかすめ、後ろの花瓶を砕く。
「近づかないで!」とクラムチャウダー。「近づいたら撃つわ!」
誰も動けない時間の後でクラムチャウダーは「さよなら」とぽつりといい自分のこめかみに銃を向ける。「後悔はしていないわ」
「やめなさい」と探偵。「あなたは生きていかなくてはならない。死んでいった人たちのためにも生きて、罪を償わなくてはならない。それがあなたの人生なのです。そして・・・、そして・・・、ああ、僕はあなたのことを愛しているのです」
しかし、探偵の長いセリフの前半1/4くらいのところで、彼女は引き金をひいて死んでいる。探偵は自分のセリフに酔っていて、彼女の死に気づかない。彼女のこめかみからは血の代わりに、妙に美しいバラの花がこぼれ出る。見る見る育って天井を突き破る。落ちてくる天井の破片をよけながら登場人物は退場。二度と物語に戻ってくることはない。
部屋に独り残された探偵は、ミス・クラムチャウダーの亡骸を抱えながら涙を流す。
「ああ、なんてことだ。なんということなんだ。こんな結末を求めてたんじゃない。僕はあなたを愛していたんですクラムチャウダー。それに・・・、僕はもうひとつあなたに言わなくてはならないことがあった・・・。とても大切なことです。実は・・・」
そこで、ページがなくなる。そんなバカな、と僕は思う。そんなはずはない。この長い物語の最後の行がこれであるはずがない。ページをめくると2468ページから2470ページまでが抜け落ちていることがわかる。僕は愕然としてなにも考えられない。11本目のビールの栓を開けようとするけど、力が入らなくてプルトップを開けられない。それとも、少し酔いすぎたのかもしれない。うまく物事を認識できない。僕のこめかみから生えたバラの花が天井を突き破って伸びていく。バラは生き物のようにくねくねと動き、何かを探しているようだ。なにを探してるんだろう。まあ、なんでもいい。そんなことより僕もここから逃げなくてはならない。巨大なかたまりがつぎつぎと降ってくる。ミス・クラムチャウダーはとてもセクシーな足をサンダルから少しはみ出させて死んでいる。足指の爪は信じられないくらい美しく切りそろえられている。そこだけが別の切り取られた時間のように。まるで永遠のように。
僕の指が何かに触れる。
ラジカセだ。古いラジカセ。二ヶ月ほど前に捨てられていたのを拾った。
音楽が鳴っている。
なぜだろう。
なぜか。
そうか。
CDがオートリバースで鳴り続けている。「キノコ」が流れてる。ぐにゃりと何かが変わっていくときの音がしてる。僕は自分の足がどこについているのかさえわからなくなる。必死で、液体みたいになってしまった指みたいなものを使ってラジカセの停止ボタンを押す。
シュン、と音がして、いろんなことが終わる。
割れた花瓶が元に戻っている。
次の瞬間、僕は消えた3ページ分の物語がどんなだったのかを理解する。
涙があふれてくるけど、流してしまうのは我慢する。もう一本だけビールを飲んで眠る。
それは、とても深い眠りだ。深くて温かい泥の中にいるムツゴロウみたいな眠り。
その眠りに落ちていく最後の一瞬でミス・クラムチャウダーが笑っている。とてもチャーミングで、彼女のいないこの世界はとても空虚だ。
朝、目が覚めたら温かい。
僕は、また再生ボタンを押す。
現実と幻想がいりまじった不思議な印象を受けました。それは、加藤さんの飲みすぎのせいなのかな?(笑)消えた3ページには何が書かれていたのか・・・。ロボピッチャーの音楽が答えてくれることを願います。あ〜、ますますCDが楽しみです。部屋でゆっくり聞くロボッチャーは私にまた力をくれるんだろうな。
Posted by: あづさ on 2004年03月10日 21:02
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