僕は基本的にとても利己的な生き物です。
物事を判断する基準はすべて「じぶんにとってそれはどうか?」という点で考えます。僕にとってプラスなのかどうかがもっとも大切な判断基準。
ただし、僕は比較的社会性がある生き物でもあるので、わりとぎりぎりまで我慢できます。「まあ、この事は僕にとって最短距離ではないけれど、かといってとりたてて致命的でもない」ようなことには寛容です。いつもいつも人に当り散らすような、破滅的な自己愛はもちあわせてはいない。
今日は久し振りに、他人を強く僕から切り離しました。多分彼は二度と僕の人生にかかわることはないし、かかわったとしてもそれは楽しいものではない。僕みたいに完璧に利己的な人間にとって、「切り離された他人」というのは、水道管のさびみたいなもので、まったく役に立たない廃棄物みたいなものです。
それは、今までの人生でも何回か起ったことですが、この年になって当たり前にそんなことがあるってのもどうなのかな。
繰り返すけど、僕は独断的で、独裁的というわけではない。社会的な面を持ち合わせていて、どんな人にもかなりたくさんのチャンスを与えるほうだと思う。我慢だってするし、建設的な意見を交わすことによって、関係性をより向上させようとも思う。
でも、一定のレベルを超えると、その線を断ち切ることにまったく躊躇がない。ほんとにまったくなんの迷いもない、ってことに今日改めて気がついてびびった。
耳元で声がする。
俺は一人でだって生きていくし、一人でだって死ねる。
どんなことだって出来る。何だって出来る。
それはポジティブな意味ではない。
とても陰惨な意味で、僕は「なんでも出来る」。
彼は僕から離れていくとき、とても興奮していて「いつか思い知らせてやる」と言った。何回も言った。
そうか。
その覚悟も僕にはある。なんでもしていい。
マシンガンを持って殺しに来るかい?
それでも僕は僕の思うままに生きる。
君がどれほど大きな声で騒いでも、それは僕には無駄だ。だってどんなに小さな声だって届くのだから。
ただ、それは僕の心を揺らしはしない。
水道管のさびが、人の心を揺らすことなんてない。
ひどくしんどい。
熱が下がらない。
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