さて、そして、なにが変わってしまったのか、という問いかけには答えられない。
それがわかっていたら話は簡単なんだけどね。知らないうちにどこかが致命的に変わってしまったのです。損なわれてしまった。それが、悲しいことなのかどうかも今となってはわからないことなのだけど。
家に帰るとワインが冷えている。いつのまにか、冷蔵庫の中はワインだらけだ。
僕はすでにずいぶんと酔っ払っているのだけど、とりあえず一本ワインをあけてみる。ずいぶんとどっしりした赤ワイン。スペインのワインで、名前は読めない。おいしいのかどうかが意味を持つ時間でもなく、ただ、ワインを飲んでるだけ。なんのためなのかは考えない。
ソファの上には新聞がおいてある。いつのニュースかわからない記事が並んでいる。ここでは、ニュースの持つ最新性も無意味である。しかし「ニュース」のもつ「最新性」が無意味であるって言葉として矛盾があるね。ただ、残念ながら、この場所におけるそれは意味合いとして成立してしまう。
北半球のどこかでまた少女が殺されて、たくさんの人が悲しんだ。そうか。基本的によいことはニュースにはならないから、紙面は悲しみで満たされている。へえ、そうか、僕のいない場所ではそんなことになってんのか。
外では空が白み始めている。また今日も新聞をきちんと埋めるだけのニュースが誕生する。そんな一日は始まらなけりゃいいとも思うが、ぼくの力ではどうしようもない。
僕はやけにどっしりとしたワインをまだ飲んでいる。なぜこんなに酔っ払っているのかよくわからない。たしか、なかなか愉快な一日だったと思うのだけど。「愉快」。そう、愉快な一日だった。楽しくて、幸せで、穏やかな一日だったわけではない。愉快な一日。滑稽で、無邪気で、2月の終わりに咲いた桜みたいな一日。あってもなくっても一緒だったとはいえないけど、かといって、後に何度も何度も思い出す一日でもない。
さて、僕は何をしようかな。まだ眠れそうにもないし、曲がかけるほど揺らいでもいない。仕事をするなんてもってのほかだし、今からビデオ屋に行って映画を借りるのも億劫。
冬のロッキー山脈でだけ見ることのできる幻の高原植物について考えてみようかとも思うけど、それは考えるっていうか想像しているだけで、なんならそれは創造ですらある。
そうだ、創造。常に創造的でなくても大丈夫であるというのは素敵なことですね。とても愉快だ。最新のニュースはのっぺりとした粘土の塊みたいで、いろんな事象がかたまってもともとは何が何だったのかさっぱりわからない。つまり、どこの少女が死んで、どこの親御さんが悲しんだのか。そして、その少女に明日の放課後にこそ愛を伝えようと思っていた少年の悲しみがもともとはなんだったのかがさっぱりわからない。こっそりと。本当にこっそりとしたためられたラブレターの端っこについてしまったボールペンの染みを、少年が気にするあまりもう一度最初から清書し直したことなんて、どこの誰にとっても悲しみではないってことだけを、ニュースはとても上手に伝えている。
そこには、常に創造的でなくても大丈夫な世界である。創造の国からやってきた王様は、丁重に軟禁されて、いくつかのビジネス的な交渉の後、何事もなかったかのような笑顔で送り返される。それでももちろんいいし、それが不服ならば、信じられないくらい成功した王様にならなくてはならない。
そして、信じられないくらい成功した王様は、総じて創造的ではなくなる。
ここにあるはずのすべてのものが、すべてあるわけではないことを、悲しいと思う人もいれば、気づかない人もいるんだね、っていう話。簡単にいっちゃうとね。
Posted by kato takao at 2003年08月24日 05:54 | TrackBackさて、そして、なにが変わってしまったのか。
やはり、ビールからワインへと変わってしまったのでは?
いつのまにか。
Posted by: エムロド on 2003年08月26日 22:43
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