まだ、東京ショックがちょっと残ってる。
僕は、僕の音楽がとても素敵だと思うので、それが世の中に伝わればなあ、というなんとも子供っぽい感覚で音楽をやってきたし、そのための努力もしてきました。
でも、あの東京の物流のスピードや、情報量の多さや、人間の多さを見ると、「ここで音楽をやったほうがたくさんの人たちに見てもらえるのだなあ」と単純に思いました。
なぜ、僕はあそこではなくここで歌を歌っているのだろう。
東京のパチンコ屋さんには、一つ一つの台にテレビがついていて、そこでコマーシャルが流れています(すべてのパチンコ屋がそうではないらしい)。電車に乗ってもモニターが延々とコマ—シャルを流している。地下鉄の通路はコマーシャルだらけ。地面にも特別なあしらいをした広告が僕らどこかへいざなう様です。右を見ても、左を見ても、ネオンが商品のメリットを歌い上げ、空をも焦がすような勢いでのぼり詰めて行きます。町中に音楽が流れている。これといったメッセージもなく。垂れ流されている。だれもが音楽を聴いているが、だれも音楽を受け取ってはいない。
そして、マーケットはまた回り出す。ささやかな従業員を養うために。いたいけな子供を大学に行かすために。愛人との愛の巣を作るために。最近できた彼女にネックレスを送るために。僕らはマテリアルな自己主張をする。「この商品を買ってください」それで?「この商品を買ってくれたら」それで?「この商品が売れた金で」そう、その金で、別のマテリアルを主張する。
だれも自分から情報を探さないから、向こうから親切に情報を教えてくれる。ほしいものもいらないものも。頼んでもいないのに。
「親切」の、「押し売り」とは、「このこと」だ。
で、そこには、そこのカルチャーがある。
うねりがあって、人がいる。音楽もある。
そこで僕が音楽をしないのはなぜなんだろうね。
なぜ、あえてここでやっているのだろう。なぜここで努力しなくてはならないんだろう。
僕は自分の中の矛盾を指摘できない。指摘してはいけない。緻密な優先順位をつけてはいけない。
気がつくと、近くに人がいて、音楽を待っている。
僕は、Dから始まる曲を作る。
Dだ。ダメ人間のD。ダライラマのD。
魂の音ではない。
でも、一応、音だ。
それは認める。
歌ってみると、音楽になる。
それでいいや、と思ってもみる。
それでよくないことは、Dの中に埋没していく。
ダメ人間の中に。
必要な、ダメに。
ムダに。
Posted by kato takao at 2003年02月06日 06:35 | TrackBack
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